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JOURNAL / 塚田圭裕の歩み

「男子バレー部の塚田です」――部ができる前から、そう名乗っていた中学生の話

一人で壁に向かっていた日々から、仲間と見た最後の試合まで。

朝の屋外コートで、少年が一人、壁に向かってバレーボールのパスを練習するイラスト。
体験をもとにしたイメージイラスト

中学校に入ったとき、学校には男子バレー部がありませんでした。

部活動というものも経験してみたかったので、1年生ではバスケ部に入りました。先輩たちはいい人たちでした。憧れたキャプテンがいて、普段はひょうきんなエースの先輩が、試合の最後にはなりふり構わず勝ちにいく。その「ださかっこよさ」を今も覚えています。

バスケ部に通いながら、藤沢クラブではバレーも続けていました。先輩たちと自転車で練習へ向かい、寒い日は自販機で買った温かい飲み物を服の中やポケットに入れる。そんな行き帰りまで楽しい時間でした。

でも、中学2年になる頃には、自分はやっぱりバレーがしたいのだとはっきりしてきました。バスケ部を辞め、学校では女子バレー部の練習に混ぜてもらうようになりました。

それだけでは足りず、朝6時に学校へ行きました。校門が開く頃、バレー経験者の用務員さんに少し対人パスをしてもらい、校庭裏のテニスコートで直上パス、壁パス、ステップ練習。一人でできることを続けているうちに、同級生も代わる代わるパスの相手をしてくれるようになりました。

「おはようございます!
男子バレー部の塚田です!」

先生たちが駐車場を通ると、そう挨拶しました。まだ、男子バレー部はありません。今思うと、なかなか変わった中学生です(笑)。

私より前から、先輩たちやその保護者の方々も学校に男子バレー部をつくってほしいと働きかけていました。それでも実現は難しかったと聞いています。だから、部ができたのは私一人の力ではありません。ただ、ないものをあるかのように名乗り、毎日ボールに触れていた。今振り返ると、あれは自分なりの予祝だったのかもしれません。

女子バレー部の練習では、誰より早く体育館に行って男子用のネットで練習し、休憩中も自分の練習をしていました。同級生に「なんでそんなに頑張れるの?」と聞かれたことがあります。質問の意味がよくわからず、「好きだからじゃない?」と答えました。理由は、今もそれ以上うまく説明できません。

3年生になると、学校に男子バレー部ができました。最初に入った同級生はすぐに辞め、残ったのは私と、1年生のゆうし、けんたの3人。自分の練習に費やしていた時間は、二人に球を出す時間にもなりました。ゆうしが「余裕!」と言うので、こちらもむきになって打ち込む。けんたはなかなか上達しない(笑)。面倒は増えました。でも、楽しかった。一人じゃなかったからです。

夏の大会には、別の学校の1年生4人を加えた合同チームで出ました。私は試合中に両脚を痛め、コートに立てなくなりました。残った選手たちは、誰もスパイクを打てません。それでもボールを返し続け、普段はサーブが入りにくかったけんたがサーブを入れ、ゆうしが難しいボールに飛び込みました。自信がなさそうに見えた合同チームの子たちも、そのときは一番いい動きをしていました。

私はコートの外から、それを見ていました。

両脚を伸ばしてサイドベンチに座る少年の後ろ姿と、その視線の先でボールへ飛び込んでレシーブする後輩を描いたイラスト。

自分がプレーするのも好きです。でも、自分がコートに立っていたら見られなかった仲間の姿があります。あの景色は、今コーチやアナリストとして選手を見ることにつながっているのかもしれません。

「バレーがやりたい」と思って、一人で壁に向かっていた中学生に、最後は仲間ができました。引退した後も高校に入るまで後輩たちの練習に顔を出し、卒業式には、使い古した赤いハンドウォーマーを欲しがったゆうしに渡しました。

今も私は、一人でも「やりたい」という人がいれば、その気持ちに応えたいと思っています。バレーボールキャンプを開くときも、まず目の前の一人が楽しめる場にしたい。その思いは、あの頃と変わりません。

そして今、まだ存在しない琉球78hersの姿を思い描いています。世界一を争う競技力、女子チームとして世界一の収益、そして、それ以上に人の心に残る文化をつくること。どれもまだ未来の話です。それでも、先にその景色を見て、できることから動いていく。一人で壁に向かっていたあの朝から、私の歩みはずっとつながっています。